2007.5.20

 
  武田信玄夫人の謎(上里町)
  水谷勇三
   

  
  武田信玄夫人は京都の公卿三条家から嫁いできたといわれ(三条夫人)、信玄の没後陽雲院と称して仏門に入った。

   武田信玄の甥信俊は天正10年(1582年)武田氏が滅亡したとき19歳、名門が消滅することを惜しんだ徳川家康に見出され召抱えられた。その後の信俊の軍功は目覚しく、家康東遷の後金窪城主(上里町)となり2千石を与えられた。

  一方陽雲院は家康の粛清が厳しいため山間に隠遁したが、夫人はこのおいの信俊を頼り金窪にやってきて神流川の戦いで焼失した崇栄寺跡に庵を営み、元和元年(1618年)97歳でこの地に没した。信俊は武田・三条両家の菩提を弔うため、崇栄寺跡に「陽雲寺」を建立した。

  ところが、甲府の円光院という寺にも三条夫人の墓がある。 こちらは信玄に先立つこと3年、50歳で亡くなったことになっており、盛大な葬儀が行われたと記録にある。

武田信玄ゆかり“陽雲寺の不思議”

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