柳沢吉保は館林藩家老の側衆から身を起こし、館林藩主綱吉が五代将軍となるに従い、家老とともに取り立てられ、御側用人から加増を重ねて、元禄7年(1694年)川越7万2,000石の城主に任ぜられた。ときに36歳。吉保は川越城主に就任するや直ちに、上富、中富、下富のいわゆる
三富の新田開発に着手した 。
広大な土地は短冊状に区画され、1軒当たり約5ha,間口72m、奥行き675mで、通
路に面した表側を屋敷地、次に耕地、一番後方を雑木林とした。屋敷の外周にはけやきが植えられた。このけやきは今日上富のけやき並木として見ることができる。
柳沢吉保はとかく評判のよくない人物であるが、善政を敷いたことも確かで、地元の尊敬を集めている。因みに有名な駒込の六義園(りくぎえん)は5代将軍綱吉が柳沢吉保に別
邸として与えたものである。
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